聖書は、人の目から見ると廉直で正しく見える道であっても、その最終結果が死に至る道があると述べています。(箴言14:12;16:25) 特に良くないのは、単にその人が今の命を失うことだけではなく、神の是認を失ってしまうことです。そのような聖書の例を考慮しましょう。
アダムとエバはエデンの園で、蛇の言葉に耳を傾けました。エバにとって、善悪の知識の実を食べることは、何も悪いことではありませんでした。エバはヘビの言葉を信じたのでその実を食べると神のようになれると考えました。(創世記3:5,6。テモテ第一2:14)
もし、エバかアダムを通して与えられていた神の警告に従っていたなら、アダムとエバはいつまでも生き続けることができたでしょう。人間は動物と違って「神の子」という立場にあったからです。(ルカ3:38)しかし、結果はアダムは、930歳で死ぬという結果になりました。(創世記5:5,6)
おそらく、エバの寿命はアダムよりも同じ程度、あるいはもっと短かったでしょう。エバにとってその生き方は、廉直に見えても、その終わりは死の道となるものでした。
エバは神の言葉に真っ向から逆らうことが自分にとっていい結果になるというサタンの偽りの言葉に欺かれました。(ヨハネ8:44)
RadbodCommandeur(1890 - 1955); photoby Deroravi (eve3)
エバはヘビの言葉を信じたので神に逆らって善悪の知識の木の実を食べることは良いことだと考えました
DoñaIgnacia de barro byarantxamex (eve5)
神の言葉に反する助言に従った結果エバは年を取って死ぬことになりました
私たちは、時々、神の律法や神の原則に反した行動が、結果が良いという聖書の真理の反対者の言葉を聞くことがあります。それは、おおむね事実を広くよく見ておらず思慮が浅いことが原因です。
また、神の律法に拘束されず自分の欲望を満たしたい、自由にしたいと望むために、神の律法に反する結果を客観的に考えずそのように言う人がいます。
神の律法と原則に反する道は、良い結果をもたらすことはありません。かえってアダムとエバに生じたように、悲惨な結果を刈り取ります。私たちは、エバのように神の言葉に反することを勧める人の言葉に欺かれて、最後に死に至る道を歩まないように気をつける必要があります。
また、アブサロムにとっても自分の進路は廉直なものに見えたでしょう。アブサロムは、ダビデよりも良い支配が行なえると考えたかもしれません。
アブサロムは、妹タマルが異母兄弟のアムノンにレイプされた時、大変怒りを感じました。アブサロムは、妹タマルの面倒を見ました。(サムエル第二13:20)そして、アブサロムはタマルに同情していたので、ダビデが罪を犯したアムノンに対して、モーセの律法に従って断固たる処置をとらないので怒りを抱いていたでしょう。(サムエル第二13:21,22)
アブサロムはアムノンを殺しました。(サムエル第二13:29)それは、モーセの律法とも調和していました。モーセの律法は、近親相姦をする人を死刑にするように規定していたからです。(レビ18:9,29)アブサロムは自分は正しいことをしたと考えていたでしょう。
後になってアブサロムは、イスラエルの人々がダビデに訴えごとを持ってきた時、その問題を聞きました。そして、イスラエルの人々の言い分に同情し、自分が裁き人でないことを嘆きました。(サムエル第二15:2-4)
アブサロムは自分がダビデよりも優れた支配が行なえると考えたでしょう。また、実際ダビデにも落ち度はあったのです。ダビデがアムノンに対して毅然とした処置を取らないことは間違っていました。それで、アブサロムが自分で王になったことは、正しいことだと考えたでしょう。
ところが、アブサロムが王になることはエホバのご意志ではありませんでした。エホバの正当な油注がれた王ダビデを退けて自分で王になることは、エホバのご意志に反していました。また、バテシバの息子ソロモンがダビデに次ぐ王になることがエホバのご意志でした。(サムエル第二12:24,25。列王第一1:13)
それで、アブサロムは最終的にダビデとの戦いで命を落としました。アブサロムが死ぬことをダビデは少しも望んでいませんでしたが、そうなりました。(サムエル第二18:5)ですから、アブサロムが神のご意志に反して自ら王になろうとしたことは、たとえ、廉直なことに見えても、その終わりは死の道になりました。
Absalomiscaught in atree (absalom)
アブサロムは油そそがれた王ダビデに逆らって自ら王になろうとして命を失う結果になりました
それで、私たちは自分の行動が、神の言葉の預言や原則と調和しているか吟味するのが賢明です。アブサロムに起こったことを考えると、油注がれたクリスチャンにある程度の敬意を払うことは、エホバのご意志でしょう。
今日、昔のようにエホバは天的希望を与えているクリスチャンに、文字通りの油をそそぐことはありません。その人が聖霊で油注がれた天的希望のクリスチャンであるかどうかは、残念ながらその人の主張しか判断材料がありません。
しかし、そのクリスチャンが神に奉仕し、神の言葉の滋養物を分配して、聖書に従って生活するよう努力をしていれば、その人が油注がれたクリスチャンであるという証拠があると言えるでしょう。(マタイ24:45-47)もし、その証拠があるのであれば、その人の油注がれた立場に敬意を払うことは、エホバ神のご意志にかなうことでしょう。
また、ヨシア王もその終わりが死に至る道を選択してしまいました。ヨシアはファラオのネコと戦うのは正しいことだと考えました。しかし、ネコはヨシアと戦うために出てきたわけではありませんでした。それで、ネコはヨシヤに引き下がるように勧めました。
そのネコの言葉は神から出ていた言葉であったと聖書は示しています。(歴代第二35:20-22)しかし、ヨシアはそれをエホバに由来するものと認めることができませんでした。その結果、ヨシヤはネコと戦い死にました。(歴代第二35:24)
ヨシヤはダビデのように慎重に神のご意志を確かめていたら良かったと思います。ヨシヤは祈って預言者に尋ねるか、ウリムとトンミムを用いて神のご意志を確かめるかしていたら良かったでしょう。しかし、良い王ヨシヤは残念ながら慎重さに欠けてしまいネコと戦うことは正しいことだと考え、戦死してしまいました。
私たちも何か行おうとする時に、自分の行動は神のご意志と調和しているか、さまざまな手段でできるだけ確かめましょう。少なくとも、そのことについてエホバ神に祈ってみましょう。また、関連した聖書の原則を調べてみましょう。また、できるだけ世俗の情報も集めて判断材料にしましょう。
私たちは何か言ったりしようとすることがある場合、自分の理解に頼るのではなく、神に祈り、また、判断材料として聖書に頼りましょう。そのようにして、その終わりは死の道となるものを避けることができるでしょう。
(prayer46)何かをしようとする時はまずエホバ神に祈りましょう
(bible52)MariaReyes-McDavis
Bible study prepping for apresentation to entrepreneurs, Sacred v. Secular in Business.