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啓示8・9章-七人のみ使いが第一から第六のラッパを吹く(43)四人のみ使いはさらに背教する者も

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  四人のみ使いたちは、大川ユーフラテスにつながれていましたが、そこからほどかれます。(啓示6:13-15)その後、二億の騎兵隊が登場します。(啓示9:16)四人のみ使いは人々の三分の一が殺されるという状況につながります。(啓示9:15)

 

 

 必ずしも大いなるバビロンから解放される時に、大いなるバビロンに対する復しゅうを求めることはまちがってはいません。なぜなら、神の言葉や証しの業のために殺された者たちのための、「あなたはいつまで裁きを控え,地に住む者たちに対するわたしたちの血の復しゅうを控えておられるのでしょうか」というエホバに対する叫びは、エホバ神に是認されているからです。(啓示6:9-11)

 

 しかしながら、やはり、クリスチャンに対して剣をとって戦うことを奨励することは間違っています。(マタイ26:52)四人のみ使いたちの中には、野獣の崇拝のために剣をとって戦うという「違反」のために、神が彼らに対して「手を上げる」ことになった者たちもいます。(ダニエル8:12,13。エゼキエル44:12,14。列王第一11:17)

 

 しかし、解放された四人のみ使いの中には、神の懲らしめから益を受けるのではなく以前として背教に進む者たちが存在することが預言されています。今回はその点について考察します。

 

(1)ダニエルの預言で預言されている聖なる契約を離れる者たちとは?

 

 ダニエル書の中には、北の王が背教したキリスト教に考慮を払い、また背教したキリスト教徒がさらに背教に進むように説得することが預言されています。北の王は二度目の南の王に対する攻撃に失敗した後に、「聖なる契約を離れる者たちに考慮を払う」ことが預言されています。(ダニエル11:30)


 すなわち、北による二度目の南に対する軍事攻撃の際には、「聖なる契約を離れる者たち」が存在していることを意味しています。 「聖なる契約を離れる者たち」とは、どんな人々を表わしているでしょうか。

 

(2)聖なる契約とは何か?
 

 「聖なる契約」とは、「父祖アブラハムに誓われたその誓い」を意味しています。(ルカ1:73)エホバ神はアブラハムが神に聞き従ったので、彼の「胤を殖やして天の星のように」すること、アブラハムの「胤によって地のすべての国の民は必ず自らを祝福する」ということを誓われました。(創世記22:17,18)



 

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エホバはアブラハムの胤によって諸国民は自らを祝福することになることをアブラハムに約束された

 



 

 この神の誓いは、ユダヤ人がパレスチナ地方を手に入れて、そこに王国を設立することを意味してはいません。ガラテア書の中でも、「イスラエルから出る者がみな真に『イスラエル』なのではないからです。また,アブラハムの胤だからといって,彼らがみな子供なのでもありません。」と説明されています。(ローマ9:6,7)



 

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Bundesarchiv, N 1576 Bild-006 / Herrmann, Ernst / CC-BY-SA 3.0
聖書的には単に肉のユダヤ人がアブラハムの胤ではない


 



 すなわち、単に肉によってアブラハムの子孫になっている生来のイスラエル人が、聖書の「アブラハムの胤」、すなわち神から是認される神の僕なのではありません。


 

 パウロは「アブラハムの胤」とは自分たち聖霊で油そそがれたクリスチャンだと説明しました。パウロは、「キリストに属している」「ユダヤ人」「ギリシャ人」「奴隷」「自由人」「男性」「女性」が、「アブラハムの胤」であると説明しています。(ガラテア3:27-29)


 

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アブラハムの胤はあらゆる国籍の民族に及ぶ神の王国の希望を持つクリスチャン



 

 「憐れみの器」とは、「ユダヤ人だけでなく,諸国民の中からも召されている」「わたしたち」すなわち、聖霊で油そそがれたクリスチャンを意味していると説明されています。(ローマ9:23,24)

 

 それで、男女や地位を問わずあらゆる国籍のクリスチャンからなる「アブラハムの胤」が、神の王国の成員となります。彼らは、「王」また「祭司」として「千年間」地上を支配し、「地のすべての国の民」にとって祝福となります。(啓示5:10;20:6)ですから、それらの神の王国の成員になるという希望が与えられたあらゆる国籍のクリスチャンがアブラハムに誓われた誓いである「聖なる契約」にあずかっています。

 

(3)イエスの到来によりあらゆる国民に新しい契約に入る機会が差し伸べられた

 

 イエスは「律法と預言者たちとはヨハネまででした。その時以来,神の王国は良いたよりとして宣明されており,あらゆるたぐいの人がそれに向かって押し進んでいます。」と述べられました。(ルカ16:16)すなわち、モーセの律法が有効だったのは、バプテスマのヨハネまででした。それ以降、「あらゆるたぐいの人」の神の王国の良いたよりを受け入れるために押し進んでいると言われました。




 

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モーセの律法はバプテスマのヨハネまでだった

 

 

 

 ですから、モーセの律法契約は、イエスの到来と共に廃棄されました。(ローマ10:4)そして、「新しい契約」がイエスを「仲介者」として発効することになりました。(ヘブライ9:15)

 

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モーセの律法は・・・・

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イエスの到来と共に廃棄された
 

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それに伴い生来のユダヤ人も生まれつき特別な神の民ということではなくなった


 

 さらに、「アブラハムの祝福がイエス・キリストによって諸国民に及び,こうしてわたしたちが,約束された霊を自分の信仰によって受ける」と述べられています。(ガラテア3:14)ですから、アブラハム契約は、イエスの贖いの犠牲により「諸国民」にも差し伸べられることになりました。ですから、諸国民、すなわち非ユダヤ人のクリスチャンが信仰によって、聖霊で油そそがれることになりました。

 

 しかし、その契約が有効であるためには、聖霊で油そそがれたクリスチャンが個人的に神に聞き従うという条件が求められます。

 

 神に聞き従うことには、仲間のクリスチャンと愛し合うことが含まれています。(ヨハネ 13:34,35)さらに、クリスチャンは、野獣に盲従して剣をとって戦うならば、それは「野獣の崇拝」という「偶像崇拝」であり、また、「殺人」であり、キリストの愛の律法に「違反」することになります。(マタイ26:52。ダニエル8:12。啓示21:8)

 

 しかし、ダニエルの預言は、神の王国に入るという約束の誓いに伴う条件に不従順になる者たちがいることを預言しています。「聖なる契約から離れる者たち」が存在するのです。(ダニエル11:30)


 

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ダニエル書は北が南を二度目に攻撃する時に聖なる契約から離れるクリスチャンがいることを予告している



 

 

(4)大いなるバビロンでの捕らわれから解放された者たちの中には背教に進む者たちが存在する


 

 ところが、大いなるバビロンでの捕らわれから解放された「四人のみ使いたち」の中には、その懲らしめから益を受けない者たちがいます。背教した状態にとどまって自分たちの影響下にいるクリスチャンに対して、剣をとって戦うように奨励する者たちがいることが予想できます。

 

 以前の記事で述べたように、ダニエル書の中で、北の王は、「契約に対してよこしまな行動をしている者たちを」「滑らかな言葉で背教に導き入れる」ことが預言されています。(ダニエル11:32)それで、「契約に対してよこしまな行動をしている者たち」、もともと神の言葉に不忠実だったクリスチャンたちが、さらに、北の王によって「背教」に進むことになるのです。

 

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北の王は真理からそれたクリスチャンをさらに背教するよう説得する





 

 

 すなわち、敵の地への捕らわれというエホバ神からの懲らしめを経験しても、その背教した状態を続けるクリスチャンがいます。かえって大いなるバビロンによる捕らわれを経験したので、その復しゅうのために剣をとって戦うことが当然のように考えるわけです。

 

 エゼキエル書の中にも、バビロンへの捕らわれを経験した原因のひとつが偶像崇拝であったにもかかわらず、偶像崇拝を続けながらバビロンにいる預言者エゼキエルに問い尋ねにきた年長の者がいたことが記されています。(エゼキエル14:7)ですから、神からの懲らしめを受けても悔い改めず、神の律法に違反する状態にとどまる神の民が存在することでしょう。

 

(5)神に忠実な民にできることはイエスの助言に従って山に逃げることだけ

 

 ですから、私たちは、たとえ、多くの神の民が大いなるバビロンによって命を奪われたり、そこに捕らわれになったとしても、「剣」をとって戦うということは、聖書のキリスト教に対する背教であることをしっかり、認識しておく必要があります。

 

 世界中で、北の王に対する崇拝や野獣の像の崇拝、すなわち北の王によって設立された軍事組織が崇拝される時が来ます。何度も繰り返しますが、そのように野獣の崇拝という偶像崇拝が高まる時にクリスチャンにできる最善で唯一の道は、イエスの助言に従って山に逃れることです。(マタイ24:15,16)

 

 私たちクリスチャンは、どのような状況になったとしても、剣をとって戦うことは、背教であることを認識しなければなりません。私たちにできることは、別の安全な場所に逃げることだけなのです。(マタイ10:23)

 

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クリスチャンにできる最善で唯一のことは北の王の攻撃進路を避けて山に逃げることだけ


 

 


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